昇平てくてく日記

幼児〜小学校低学年編

理解と指導

◎6月30日の記録

 リタリン  1回目 8:00  2回目 12:00頃

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昇平たちのような、軽度の発達障害児の場合、特に苦労するのは、普通の子どもと一見まるで同じに見える、ということ。
挨拶されても挨拶を返さなかったり、いくら注意されてもいたずらをやめなかったり、どんなに言い聞かせてもすぐに部屋の中を散らかしたり。
それは本当は、ADHDという障害から発生する症状なのに、見た目は普通の子と変わらないものだから、わがままや愚かさのせいでそんなことをしているように見られてしまって、苦労することが多い。
子どもだけでなく、親も。
親だって、精一杯子どもに挨拶などを教えたり、公共の場でのマナーを教えたり、片づけなどのしつけを教えようとしたりしてきているのに、いっこうに子どもは覚えない。それを知らない世間の人たちは、子どもの態度だけを見て、「親の教育がなっていない。」「母親の育て方が甘いからだ。」と誹る。
それが辛くて、親は子供を叱ってしまう。「これだけ教えているのに、あんたはどうして出来るようにならないの!?」
子どもにしてみたら、「やりたくても出来ないんだ。分かっているけど、どうしてもそんなことをしてしまうんだ」という気持ちだから、そんなふうに叱られるのはとても辛い。

我々だって、同じだろう。
それはちょうど、私たちにモンゴルの人とモンゴル語で会話をしろ、と言っているようなものなのかもしれない。
見た目がモンゴル人とそっくりなのだから、モンゴル語で話が出来るはずだ、何故出来ない、と責められたところで、もともと、私たちはモンゴル語など知らないのだから、出来ないものは出来ないと言うしかない。彼らのような子どもたちも、それと同じような気持ちなのじゃないだろうか。
・・・モンゴル語が堪能な人には、あまり適切でない例えかもしれないけれど。(^_^;)

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では、彼らに出来ないことは出来ないこととして、そのまま見逃していけばよいか、というと、そういうわけでもないだろう、と思う。
子どもの担任の先生などを相手に話していると、よくあるのだが、「この子は○○が出来ません。」というと、「でも、そう決めつけてしまうのもよくないと思います。△△ちゃんはそれが出来るだけの能力があると思うのです。私はこんなふうに試して、力を伸ばしてみたいと思っています。」といった会話。
先生によっては、ここまで丁寧な言い方もしてくれないので、親としては先生から叱られたり、先生が怒っていたりするように感じることもあるようだ。
言い方はともかく、これは大事なことじゃないかと思う。
子どもに出来ないことを無理に強要してはいけないのだけれど、その子にそれが出来るだけの能力があると見たら、方法を工夫し、少しずつでいいから、その力を引き出すように指導することは絶対に必要だと思うのだ。
でなければ、その子は「障害児だから」という名の下で、必要な教育もしつけもなされないまま、初めのままの状態で成人していくことになってしまう。

大切なのは、その子の状態を観察し続けること。
出来るか、出来ないか、判断すること。
出来そうだ、と思ったら、どんな方法を使えば、それが出来るようになるか考えること。
そして、その方法を試しながら、さらに観察を続けて、方法が合わないようなら別な方法を試してみるし、やっぱり今はまだそれが出来そうにない、と分かったら、潔くもう少し成長するまで待ってみること。
そして、何より大事なのは、子どもに向かって、「君は○○が出来ないけど・・・いつか出来るようになるかもしれないし、ならないかもしれないけど、それでも、お母さんは(お父さんは)君が大好きだからね」とメッセージを出し続けることなのだと思う。
周囲の人々の誹りに負けることなく・・・。

とはいえ、周囲に理解してもらえたら、これほど親も心強いことはない。
一日も早く、ADHDなどの発達障害が広く社会権を得られるように、と願い続けてしまう。
1人でも多くの「昇平」が幸せに成長していけるために。

[00/07/01(土) 06:10]

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