昇平てくてく日記
幼児〜小学校低学年編
勉強がわかること
◎12月7日の記録
リタリン 1回目 8:20 2回目 13:00頃
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夜、お兄ちゃんの勉強を見てやった。
算数の分数の計算でつまづいていて、「どうしてもよく分からない、お母さん教えて」と言うので。
二つの分数を通分して分母をそろえ、足し算や引き算をする、という問題。
見ていると、途中まではなんとか解けていたが、数が大きくなって複雑になってくると、頭が混乱してくる様子。「教えて」と言っていたくせに、こちらが教えようとすると、「分からない!」と怒ってパニックになる。
久々のパニックに昇平も泣きだし、昇平にはおばーちゃんの方へ避難していてもらうことにした。(こういうとき同居はありがたい、とつくづく思う。)
さて、半パニック状態の彼を叱りつけ、こちらの説明に集中させてから、改めてやり方を説明。
分数の計算をするとき、一気に答えを出さずに途中の式を書き出して、それを見ながら計算していくように指導した。
・・・そう、彼は途中式を書かずに、暗算だけで答えを出していたのだ。だから、数が複雑になってくると、頭の中に覚えきれずに、わけが分からなくなっていた、というわけ。
基本の計算の仕方は理解できていたので、そこさえクリアすればあとは早かった。
どの問題もすらすら解けるようになり、分数が面白くなって、問題集をもう1ページ、もう1ページと進めて、結局、合計1時間半も集中して勉強していた。
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満足そうな、とても嬉しそうなお兄ちゃんの顔を見ながら、ああ、そうだ。彼らは本当に勉強が分かりたいと思っているんだよな、と改めて思った。
小学校に上がった昇平のことを連想したのだ。
お兄ちゃんは時々こんなふうに勉強を見てやれば、あとは自力でなんとか進んでいくことが出来る。
でも、昇平の方はきっと、分かることより分からないことの方が多くなるだろう。
そんなとき、親としては、「分からなくてもいいんだよ。勉強がすべてじゃないからね」とつい、そんなことを言ってしまいそうな気がする。「がんばっただけで、えらいんだからね」と。
その気持ちに嘘はない。
勉強ができる、というのは、主に学校の中だけでの価値観。大人になって社会に出れば、いわゆる「お勉強」ができることだけが、その人の評価にはならない。
「お勉強」ばかりできて、人間としての基本ができていないような状況は絶対に良くない、とも思っている。
けれども、子どもたちは本当に「勉強が分かるようになりたい」と思っている。
分からなかったことが、がんばって分かるようになったとき、お兄ちゃんだけでなく、誰もが本当に嬉しそうになって、満足そうな笑顔を見せる。自信に満ちた顔つきになる。
それは、きっと、昇平も同じことなのだろう。
無理に勉強を教え込もう、という気はない。
でも、昇平が勉強につまづいて「分かるようになりたい!」と願ったときには、どこでつまづいているのかを見極めて、彼に分かる方法でやり方を示してやれるような、そんな手助けをしてやりたい、と思った。
昇平、ただいま年中さん。
再来年春には、小学生になる。
[00/12/08(金) 05:38]