「認知」についての考察 その1
最近、日常の話題が多かったので、この辺で少し堅い話をしてみようと思います。
「認知」についての考察です。
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「認知」というのは、婚姻関係のなかった相手の子どもを我が子として認めるとか認めないとか、そういう世界の話では、もちろん、ない。
目の前にあるものや、目の前で起きている出来事を、しっかり理解して自分の中に情報として取り入れること。そのことを「認知」と呼ぶ。
たとえば、今、目の前にリンゴが1個あったとする。赤くてみずみずしい、おいしそうなリンゴだ。
でも、生まれてからこれまで、リンゴを食べたことも、見たことさえもなかったとしたら、その人はそれが食べ物だと分からないだろう。
ところが、リンゴを食べたことのある人がその人に「これは果物の一種で、とてもおいしいよ」と教えてくれたら。その人はそのことばを信じて食べてみるかもしれない。そして、食べてみて、「あ、食べられる」「おいしい!」と感じるかもしれない。
かくて、その人は「リンゴ」というものがおいしい食べ物だと認知できたことになる。
ところが、世の中には、この「認知」がなかなかスムーズに行かない子どもたちがいる。
いくら誰かが「これは食べ物だよ。おいしいよ」と教えてあげても、それが受け入れられない子。
ひとつの対象に注目できる時間が短くて、充分に観察したり理解したりすることができない子。
電車や車、数字は大好きだけど、リンゴには全然興味を持てない子。
写真や実物で赤い丸い果物がリンゴだと分かっているのに、皮をむいて切った状態になると、同じリンゴだと理解できない子もいる。
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こうした認知の困難は、その子の生活に著しい影響を与える。
一時が万事この調子だから、新しい出来事がなかなか理解できない。食べ物の例で言えば、自分の知らないメニューは食べることができなくなる。以前、自分が食べたことがあって「おいしかった」と感じたものにしか、手を出せなくなる。認知に困難を持つ子には、偏食の激しい子がとても多い。(ただし、偏食の激しい子がイコール認知に困難をかかえる子、というわけではないので、念のため。)
目の前にいる人間の行動や会話の意味が理解できない子だと、社会性に重大な遅れが生じる。その子の年齢が上がってきて、子ども社会の一員と見なされる時期にさしかかると、仲間はずれにされたり、いじめの対象になったりすることが多い。
もちろん、勉強に関する認知能力に困難がある子は、勉強が理解できなくて、クラスの中で遅れていくようになる。
認知に困難があるというのは、認知できる情報量が少ない、ということだから、その少ない情報の上に立って、さらに新しいことを認知しようとすると、とんでもない誤解や誤判断をするようにもなる。
たとえば、「他人をたたくのはいけないことだ」という先生のことばを認知・理解できた子が、クラスメートが親愛の情を込めてその子を軽くこづいたら、「たたくのはいけないことだ!」と本気になって怒り出して、クラスメートがびっくりしてしまった、など。
これに関しては、ニキ・リンコさんがご自分のHP内に載せている
『閉じた情報の環っか 俺ルールの世界に生きる人々』に詳しい。
(その2)に続く
[03/08/20(水) 16:40]