昇平てくてく日記
幼児〜小学校低学年編
安心できる世界(前編)
今日は学童のミニ遠足だった。
昨日の雨も今朝には上がり、曇り空の一日。ぎらぎらと日が照りつけ、34℃、35℃なんて気温になるより、ずっと過ごしやすくて安心だった。
昇平はこの遠足を数日前からとても楽しみにしていた。近くの公園まで歩いていってアスレチックで遊び、お弁当を食べた後はプールに入って帰ってくる、という日程なのだ。楽しみで楽しみで、昨日は何度も「明日は雨降らない?」と聞いてきた。朝もリュックサックを背負って、張り切って学童に出かけていった。母が「それじゃ気をつけて行ってきてね」と声をかけても、生返事をしただけで全然振り向かなかった。
学童に送った帰り道、つくづくと「安心できる環境の力はすごいなぁ」と考えてしまった。
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昇平にはいろいろな発達障害の特徴があるけれど、その中でも特に顕著なのは「認知」と「注意」の困難だろうと私は考えている。
自分の周りの人やモノ、できごとに関して、他の大多数の子どもたちのようにまんべんなく関心を向けることができない。見えるもの、気がつけるもの、理解できるものの範囲が狭い。「興味に偏りがある」「興味の幅が狭い」と小さい頃からよく専門家に言われてきたけれど、それはつまり「認知の幅が狭い」から、認知できるものに関心が集中して、そこにだけ強く興味を示すようになったのだと、ずっと私は見てきた。
数字や文字、記号、パソコン、ゲーム、CG、ギャグマンガ、字幕付きのバラエティ番組(「学○へ行こう」)、本、ビデオ・・・こだわりと言えるほど彼が好きになったものは、どれもこれも、彼にとって「わかりやすい」ものばかりだった。
昇平にはまた、「注意」の困難も強い。ちらと見ただけで判断してしまう素早さはすごいけれど、あまり早すぎて、物事がきちんと理解できないうちに関心が別のものに移ってしまう。人の話を最後まで聞けない。自分で話していることも、途中で集中がとぎれて、何を話しているかわからなくなってしまう。物事を最初から終わりまで確認し続けることができない。故に、起承転結の流れ、原因と結果の原則がなかなか理解できない。これもまた、彼の認知や理解に大きな影響を与えてきた。
ただ、集中力の問題には幸いリタリンと抗てんかん薬がかなり効果を上げたし、昇平自身の成長のおかげもあって、この困難は年々軽減してきているような気はする。
とまあ、こんなふうに昇平の特長を上げると、「では昇平くんは自閉スペクトラムでは」とか「ADHDの不注意型だろうか」とか、専門的な分類の話になって行きかねないのだが、私としてはもう「そんなことはどうでもいい」と思っている。
診断名は単なる手がかり。対応の方向をつかむための羅針盤。方向をつかんだら、あとは、その子どもの持つひとつひとつの特徴を知って、対応を考えていく段階に入ると思うから。
認知に偏りがあるということは、どういうことを引き起こすか。
もちろん、理解がうまくいかないという困難が起こる。普通なら見ればわかること、聞けばわかることが、彼には見ても聞いてもわからなかったりする。周りのみんなはちゃんとわかっているみたいなのに、ぼくだけ何故だかちっともわからない。みんなはちゃんとうまいことやっているのに、ぼくだけは何故だかしょっちゅう失敗している・・・。
そんな経験や思いを繰り返すうちに、その子はいつしか、とても臆病になっていく。どんどん不安感の強い子どもになっていく。当然だ。世の中は、よくわからないままに物事が動いていく謎の世界なのだもの。
わからないものには極力手を出さない。近づかない。でも、その中に自分がよくわかるものはある。ゲーム、パソコン、本、ビデオ・・・これがある世界はよくわかる。だから、安心。ぼくはそこにいよう。そこでなら、ぼくは安心して楽しく過ごせるから。
これが、認知に偏りのある子が抱える「こだわり」の実態のひとつだろうと思う。
その子を「こだわり」から無理やり引っ張り出してもうまくいかないことが多い理由は、ここにあると思う。
外の世界が全然安心できるものじゃないのに、「そこにばかりいてはダメだ」と安心の世界から手をつかんで引きずり出したって、その子は全然落ち着かない。無理に体験させられる外の世界が、不安で不安で、心の中は恐怖でいっぱいで。
そんな形で外の世界を経験したって、誰も外の世界を素敵だなんて思えるわけがない。むしろ、安心感を求めて、なお強固に「こだわり」に執着するだろう。
[05/08/11(木) 20:12] 学校 日常