昇平てくてく日記

幼児〜小学校低学年編

「親」という専門家・2

けれども、その一方で、こうも考える。
子育てを育児書というマニュアルに頼りたがる親が増えているように、発達障害に関しても、「○○障害なら△△だから、××をすればいい」というような、マニュアル的な理解や対応が蔓延してきているのかもしれない・・・と。

拙著『とことんこのこにこだわって』の中でも、他のメンバーたちと共に繰り返し語ったけれど、そういう子どもの理解は、本当の意味で子どもを理解していることにはならないと思う。
そう考えることで見えてくるのは、「○○障害の□□くん(ちゃん)」というステレオタイプな子ども像。
でも、本当に目の前にいる子どもは、そんなイメージだけで語り尽くせるほど、単純なものではない。昇平を見たって、ある部分にはADHDならではの衝動性や多動性があるし、ある部分にはいかにもアスペルガーらしい場面認知の悪さがあるし、感覚過敏や感覚統合の悪さのようなものも、あちこちに見られる。それ以外にも、障害名では説明しきれないような、数限りない特徴が、昇平というひとりの子どもの中にある。
「この子はADHDだから」「アスペルガーだから」という紋切り型な言い方で切り分けられて、その視点だけで昇平を対応されてしまうことが、私は、なによりも怖い。だって、昇平は昇平。ADHDとかアスペルガーとか、そんなことばだけでは絶対に説明しきれない、大きくて広くて複雑な存在なのだもの。紋切り型の対応では、必ず、対応する指の間から、こぼれ落ちていくものがたくさん出てくると思う。

今、親たちの間に、子ども自身を見ることよりも、障害名、診断名で子どもを理解しようとする動きが広がってきているのだとしたら、それは絶対に危険なことだと、私も思う。
そんな形の「専門家」になるくらいなら、昔ながらの、「うちの子はこんなことができる。天才かも♪」なんて喜んでいる親バカな親の方が、ずっといいと思う。
少なくとも、そういう親から子どもは愛情を感じるはず。「うちの子は○○障害」なんて言い切って、その視線だけでしか見ようとしない親からは、子どもは何を感じるだろうか?

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今、私が改めて感じていることに、「連携」の必要性がある。
連携なんてことばをろくに知らなかった頃から、必要に迫られて、いろいろな人たちと連携してはきたけれど、最近、ますますその大切さを感じている。
多分、それは昇平が成長して、社会に出て行き始めたから。もう、親ひとりの腕の中に収めておくことができなくなってきたから。
私は、いつだって「一緒にタッグを組んで子育てをしてくれる専門家」を求め続けてきた。保育園の保育士、発達相談にのってくれる心理士、学校の先生、学童の指導員、病院の医者、etc.・・・。すぐにすばらしい協力者が見つかったこともあるし、なかなか見つからないこともあった。だけど、私はいつだって、あきらめずに探し続けた。今も探し続けている。
そういうタッグを組むためにも、障害に関する専門知識はとても役に立った。一緒に子どもの育て方を考えていく共通言語になってくれたから。

私は今、「親という専門家」になりたい、と切に思っている。
家庭の中で昇平を受け止め、受け入れ、揺るぎない心の基盤を彼に与えてあげたい。
人間として生きることの「基礎」を教え、学校や社会に出た時に役に立ちそうな基礎能力を養ったり、健康に過ごせるための衣食住を管理してやれるような、そんな「親」という専門家になりたい。
いつか、昇平は必ず親である私の元を離れて独立していく。それだけは、今からはっきりと感じている。
その時のために、親である私が、すべての準備を整えてやることはできない。
だから、「他の専門家」たちに協力してもらいたい、と心から思う。
私は親として、親の立場から、昇平に関わる。だから、他の専門家たちは、それぞれの立場から、昇平に関わってほしい。私ひとりで、それらすべてを行うことは、絶対に不可能だから。
そして、願わくば、親である私を含むすべての専門家を、子どもに合わせて調整してくれるコーディネーターがぜひ欲しい、と思う。今はそういう人がいないから、結局親である私が、あちこちに声をかけ、人材を捜してコーディネートするしかないのだけれど、これをやってくれる専門家が出てきてくれたら、私は「親という専門家」に専念することができる。

たぶん、こういうことを考えている親は、私だけではないと思う。
親の会の懇親会で話し合っても、こういう連携の話はよく出てくるし、実際、親の会のメンバーも1年前、2年前とくらべると、格段に「専門知識」が増えているのがわかる。
私のサイトの掲示板に集う親御さんたちも同様だ。みんな、本当によく勉強しているし、本当に子育てに熱心だと思う。
それは確かに専門家化していることなのかもしれないけれど、もしかしたら「親という専門家」になってきている、ということなのかもしれないなぁ、とも思う。
もちろん、親にもいろいろな人がいるし、障害を受け入れて理解していくにもさまざまな段階があるから、最初からそんなふうなことは考えられないだろうとは思うけれど。


親は親。我が子に障害があってもなくても、どこまで行っても、いつまでたっても、やっぱり親は我が子の親であり続けるんだろうと思う。
死んでこの世を去っていく、その瞬間まで。

[05/12/12(月) 11:08] 講演 療育

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