昇平てくてく日記2
小学校高学年編
連携を考える〜昔語り〜
昇平が小さいうちは、本当に無我夢中だった。
言うことが全然通じない。言い聞かせても理解しない。家の中は、ありとあらゆるものが引き出しから引っ張り出されて足の踏み場もない。歩行器に入れれば家中暴走して歩く。あげくの果てが玄関から落ちる。家中柵とベビーガードと鍵だらけ。
歩くようになったら、今度は家の外へ出て行って行方不明。一度、本当に見つからなくなって、職場から旦那を呼び戻して、兄ちゃんやその友だちに探してもらい、警察にまで通報したこともあったっけなぁ。近所には、落ちたら助からないような川もあったし、あの時は本当に生きた心地がしなかったっけ。
落ちつきがないから、怪我も多かった。風呂場の浴槽から叩き落ちて、敷居のレールで顎の下を切って七針縫ったのは二歳の頃。それがふさがりかけた頃、また廊下を走って転んで、傷口が開いて病院へ飛んでいって。
買い物に行けば店内であっという間に姿を消す。ベーカリーコーナーに並ぶパンを手づかみで食べていて、店員さんに謝りながら、目の前で支払いをして見せて、それを隣の休憩コーナーで食べさせて、通じても通じなくても、「こうやってお金を払ってから食べるんだよ。黙って取って食べてはダメなんだよ」と繰り返し教えて。
夜泣きもひどかった。三歳を過ぎるあたりまで、まともに一晩続けて寝たことがなかった。一度泣きだしたらパニック状態。どんなにしたって泣きやまない。家族は慣れたもので、そんな中でも平気で寝ていたけれど、階下や近所に気を遣いながら、一人暗い茶の間で必死で昇平を抱きながら、あまり泣きやまない彼に頭が変になりそうになって、思わず投げ落としたこともあった。……それが積み重ねた座布団の上だったというのが、母親としての、ぎりぎりの自覚だったんだろうな。
眠らせてもらえないから、疲れがたまる。疲れがたまれば気持ちも体もおかしくなってくる。メニエルの発作を何度も起こして、ついに入院したのは彼が生後10か月の時。ちょっと頭を動かしただけで目が回って吐き気がする中、昇平に最後の母乳を含ませながら、「これが限界。自分一人でがんばってこの子を育てるのはもう不可能だ」。そんなことを考えたっけ。
昇平が生まれてから3歳になるまで、私たちは同居ではなかった。今思っても、これは本当に幸運。あんなにものすごい状態の昇平に、義父母が耐えられたわけがない。私もきっと責められた。子育てのしかたが悪いんだ、とか、もっときちんとしつけろ、とか。
3歳になっても、まだまだ昇平の状態はすごかったけれど、それでも少し話が通じるようになった分、マシだった。ほんの少しだけれど、同居の家族にも目を向けるようになった。言われたことを理解しようとする傾向が見えていた。
わかれば、案外きちんと理解して、その後の行動はスムーズだったりした。わからせるのがまず大変。昇平へのいろいろな対応は、「どうしたら昇平に理解できるか」というのが基本だった。
反抗しているように見えても、それは実は、わからないことから来る混乱のパニック。
長いことばが通じなければ、短い言葉で。それも通じなければ、実物を見せて。
返事のしかたも独特で、こちらが質問したことの最後を繰り返して言うエコラリアがあったから、本当に答えを知りたいときには、必ず質問を二度やりなおした。「どっちがほしい? AそれともB?」「B」 「どっちがほしい? BそれともA?」 それでもBと答えたら、それは彼が本当にほしいもの。でも、二度目にAと答えたら、質問の意味がわからなくて、ただ最後のことばを繰り返しているだけだから、質問の仕方を変えなくちゃいけない。
兄ちゃんの小学校の育成会で騒ぎまくる昇平。でも、子守してくれる人はいないから、うるさいのを承知で会合に連れて行かなくちゃいけない。どうしても抜けられない大事な話し合いの時、子守を引き受けてくれた先輩お母さんがいたけれど、とうとう途中で音を上げて放棄してしまった。後からお礼の電話をかけたとき、「二番目の子はわがままになるのよね」と先方が口をすべらして、あっというように口をつぐんだ。「そうなんです〜。本当に手を焼いていて、困ってるんです」ととっさに答えたら、「でも、男の子はそういうものだから」と、ほっとしたように慰められたり。
「昇平くんはうちの子と一学年違うわよね」と、近所のお母さんから、悪気もなく安心した顔をされたこともあった。悪意がない分、あまりにも正直な反応で、思わず苦笑いさせられたっけなぁ。
本当に、いろいろなことがあったね。本当に本当に、いろいろなことがあった。
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あれを私一人で抱え込んでいたら、きっと私は潰れていたんだろうと思う。
彼を何とかするのが母親としての義務だ、とか考えてしまったら、きっと私は生きていけなかった。世界中の人たちから昇平を邪魔者扱いされているような気がして、私たち母子のいる場所がどこにもないような気がして――きっと、母子で車を走らせて、どこかの海岸から飛び込んでいたんじゃないだろうか。「世界中の皆さん、ご迷惑をおかけしてすみません。」そんな遺書を書き残して。
だけど、私は死ななかった。どうしてだろう、と考えると、浮かんでくるのは夫の顔。
仕事、仕事、仕事が本当に忙しい人。どの職場に異動になっても、今度こそまともに休める職場だと聞かされても、やっぱり仕事が追いかけてくる。帰宅は遅い。休日にも仕事に行く。だから、実際の子育てはやっぱり私の仕事になる。運動会の時にも呼び出しがかかって、途中で仕事に行ってしまったっけね。
でも、夫は心の中では私たちを向いていた。手を出せることは少なくても、家にいるときには、きちんと気持ちを向けてくれた。その日あった昇平の嬉しかったこと――嬉しいことだって、ちゃんとあった。一つ一つは小さくても、きらめくように嬉しいことはたくさんあった――意外だったこと、困ってしまったこと、難しかったこと。夫がアドバイスしてくれることはまずなかったけれど、それでも話を聞いて、昇平のことを私と共有してくれた。あれが、私を孤独から救っていたんだろうと思う。
私は一人で子育てしているんじゃない。
どんなに母親の自分だけががんばっているように見えていても、その陰に、自分を支える夫がいるのを常に感じていた。一人きりじゃないのが嬉しかった。そして、夫も、時間が許すときならば、ちゃんと子育てを手伝ってくれた。
私が煮詰まってかんしゃくを起こしてプチ家出をしたとき、頭が冷えるまでドライブしている間、子どもたちの面倒を見てくれていたっけな……。(笑)
今だって、運動不足でダイエットが必要な昇平を、休みごとにプールに連れて行ってくれている。最近は、仲良しのIくんまで一緒に連れていって、友だち同士の関わりにも一役買ってくれているし。
夫にできる子育ては今でもとても少ない。私がやっていることの、何十分の一だろうと思う。だけど、その何十分の一を分かち合ってもらえるのが嬉しい。それが、私を元気にする。
夫の協力、子育ての分担というのは、決して、時間や内容を均等にすることではないな、とも思っている。
お互いができることを、できるときにやる。それがきっと分担というものの本当の姿だろう、と。
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そして、それは他の人々に対しても言える気がする。
昇平のたった一人の兄弟の兄ちゃん、一緒に暮らしているじーちゃん、ばーちゃん。ゆめがおかの担任たち。協力学級の5−2の担任や、同じ5年生の先生方。保健室の先生。病院の主治医。検査やアドバイスをしてくれる心理の先生……。たくさんの人たちが、昇平というひとりの子どもに関わってくれている。
その人たちに、母親である私と同じことをしろ、とは思わない。要求したってできるわけがない。
でも、母親の私とは違うところに、その人たちにはできることがある。母親の私には与えられないものを、昇平に与えることができる。それぞれの専門分野、それぞれの得意分野で。
それが、連携ってことなんだろうと思っている。
お互いができることを、できるときにやる。
母親だけが抱え込みすぎないで。
みんなから、少しずつ、協力の手を借りながら。
そんなふうにして、大勢の人たちの中で昇平は育っている。
昔、あんなに苦労したのが、今では本当に嘘のようだね。遠い夢物語みたいだ。
もちろん、今だってしょっちゅうトラブルはあるし、困ったことも苦労することもあるけれど、でも、あの頃の姿と今を比べたら、信じられないくらい、昇平は成長している。
だから、今はいろいろあるけれど、きっともっと大人になったら、もっともっと成長しているだろうと信じることができる。
それをするのは、もう母親の私じゃない。昇平に関わるたくさんの人たちと――昇平自身だ。
連携っていうのは、みんなと一緒に生きていくこと。
昔をつらつら思い出しながら、そんなことを考えている。
[07/03/03(土) 13:38] 学校 日常 療育・知識 発達障害