昇平てくてく日記2

小学校高学年編

混乱の夜

 昨日の夕方、兄ちゃんが私の実家から家に戻ってきた。彼の短い春休みも間もなく終わる。
 夕飯の後、「i-podにパソコンから音楽をダウンロードして」とCDを持ってきた。昇平は同じ部屋の中で、自分のパソコンでお絵かきをしていた。
 言われたようにダウンロードしようとしたら、i-podの容量がほぼいっぱいになっていて、一番入れたかった曲が入り切らなくて残ってしまった。余計な曲を消せば入るかと、兄ちゃんとあれこれやったけれど、私自身がi-podの(というか、そこへ音楽をダウンロードするソフトの)操作法を充分理解していないこともあって、なかなかうまく行かない。兄ちゃん、疲れていることもあって、かんしゃくを起こし始めた。
 このあたりから、昇平の顔色が変わってくる。今にも泣きそうな真っ青な顔になって、じっとこちらを見ている。
 昇平にとって、大泣きしている子どもとかんしゃくを起こしている兄ちゃんは、世界中で何より嫌いなもの。聴覚過敏があるうえに、場面の読み取りがうまくできない、という昇平の特長からきているものだから、本人自身にもどうしようもない。
「隣の部屋にお父さんがいるから、そっちに行っておいで」
 と声をかけるのだけれど、ここにいる、と言って、頑として動かない。
「昇平、あっち行ってろ」
 と兄ちゃんも言う。高ぶりそうになる感情を必死で抑えている声。それでも昇平は動かない。

 なんだかんだ、やっぱりうまく行かなくて、ゴチャゴチャやっているうちに、CDのケースが机から落ちて、ケースが壊れた。CDそのものはパソコンに入っていたから無事だったけれど、借り物を壊してしまった! と兄ちゃん大ショック。それでとうとう兄ちゃんが崩れた。人に当たるのではなく、自分自身に当たり始める。おいおい、それほどのことじゃないよ。CDケースくらい、ちゃんと別の新しいのに交換できるよ。でも、疲れている兄ちゃんは制御が利かない。
 とうとう昇平が泣き出した。暴言、パニック。いちど父のいる部屋に逃げていったけれど、やがてまた戻ってきて、兄ちゃんなんかやっつけてやる、粉々にしてやる、とどなりつける。
 ……これが、我が家で一番つらい展開。
 兄ちゃん、先日私がそれで爆発しているのを目の当たりにしているから、これまでと態度が変わっていた。今までなら、「昇平だって同じように怒るくせに!」とどなり返して大騒ぎになるのだけれど、この時には、「ごめん、昇平。ごめんごめん」と謝っている。自分自身も混乱して、パニックを起こしかけているのに。
 昇平がそれに勢いを得て、いっそう兄ちゃんを責める。とうとう旦那がやってきて、昇平を怒った。
「こら、昇平、やめろ! あっちの部屋に行ってろ!」
 旦那、ナイスフォロー。
 そう、兄ちゃんは悪くない。もちろん、昇平も悪くないけれど、兄ちゃんが責められるのは、やっぱりあまりにも理不尽でかわいそう。
 昇平は旦那とまた隣の部屋へ行き、こちらの部屋には私と兄ちゃんだけが残された。

 やっとi-podに目的の曲がダウンロードできた。
 でも、兄ちゃんは自己嫌悪の海に沈没。泣き出してしまう。
 兄ちゃんのせいじゃないよ、誰が悪いんでもないんだよ、と話しかけると、兄ちゃんが言った。
「それでも、昇平があんなふうになっちゃうのは俺のせいだ。昇平をあんなふうに怒らせるのは俺だけだもんな。他の家族なら誰もこんなことには起きないのに」
 それはしょうがないよ。君たちが子ども同士だからなんだもの。お母さんたちはみんな大人だから、かんしゃくとかも起こさないでいられるだけ。それでも、お母さんだって、この前みたいに切れることがあるよ。
「どんなに自分のせいじゃないって言われたって、そう感じちゃうものはどうしようもないんだよ。お母さんにはわからないだろ、この気持ち」

 ……そうだね。誰がなんと言ってくれたって、そう感じられてしまうものは、感じてしまう。それはどうしようもない。それは確かだ。
 自分自身ではどうしようもない、自分の特性。確かに、兄ちゃんは少し怒りっぽい。小さい頃には、思い通りにならないことが起きると、すぐにかんしゃくという形のパニックを起こした。本当に小さくて、まだ何もわからない状態だった昇平は、そんな兄ちゃんを見て、「かんしゃく=怖い」という構図に陥ってしまった。今はもう、兄ちゃんだってそんなに頻繁にパニックなんか起こさないし、かんしゃくだって、大抵は自分で抑えようとしている。昔とはもう全然違っているのだけれど、昔の兄ちゃんを覚えているものだから、どうしても今の兄ちゃんが信じられないでいる。それに、主治医も言うように、昇平は相手の感情に巻き込まれて行きやすい特徴があるから、そこのところでまた、混乱が激しくなっていく。
 本当に、誰も悪くなんてない。ただ、神様が君たちをそんなふうに作っただけ。
 でも、自分が自分であることで、他の人が苦しんでいる、っていう事実は、とてもつらくて苦しい。どんなにその苦しみを取り除いてあげたくても、自分が自分であることは、変えようがないことだから。それが、本当は大好きな自分の弟であれば、なおのことで。
 その気持ちは、お母さんもわかるんだよ。実はね。遠い遠い日に、やっぱりそんな感じのことがあったから……。

 どうしたらいい、と兄ちゃんが言う。後で昇平に謝らなくちゃ、と。
 謝る必要はないよ、兄ちゃんも誰も悪くないんだから、と答える。これは時間が解決していくことだからね。
「時間が解決するってどういうことさ?」
 兄ちゃんの声はとがっている。
「二人とも大人になっていくってことだよ。兄ちゃんはこれからもっと大人になれば、もっと自分の感情をコントロールできるようになるよ。そうすれば、今よりもっともっと、かんしゃくも起こさなくなる。昇平だって、以前と比べたら、小さい子の泣き声とかに我慢できるようになってきたし、我慢できなくなってきたら、別の場所に避難できるようになってきている。そういうふうに、我慢できる力や切り抜け方が、大人になるに従って、もっと成長していくんだよ。大人になっていけば、今よりもっと楽になっていくんだ。それがね、時間が解決する、ってことなんだよ」
 でも、俺が一緒にいると、昇平に悪い影響ばかりじゃないか、と兄ちゃんが言い続ける。
 兄ちゃんの心の傷は深い。兄ちゃんのかんしゃくを見ておびえて泣くのは昇平だけど、そうさせてしまう兄ちゃん自身だって、いつもものすごく深く傷ついている。
 そんなことないよ、兄ちゃんが昇平にいい影響を与えていることだって、いっぱいあるんだよ。
「どんなことで!?」
 と兄ちゃん。うん、そう聞かれると思ってた。昇平が、兄ちゃんの部屋の貯金を見て、自分でお金を大切にするようになり、無駄遣いがなくなった話を聞かせた。
 そんなこと……と言いたげな様子を見せながらも、それでも、兄ちゃんは黙って聞いていた。
 いいんだよ、無理に納得しなくても。きっと、時間がたてばこういうことの意味もわかっていくだろうから。

 兄ちゃんは疲れたんだから、今日はもう寝なさい、と言ってやった。疲れているときには、どうしても考えが悪い方にばかり行くからね。
 兄ちゃんは、気持ちを切り替えるのにお風呂に入りに行った。

 今度は昇平の方のフォローへ。隣の部屋へ行くと、昇平は旦那に付き添われて、布団をかぶって寝ていた。眠ったのかと思ったけれど、ただ、おびえて泣いていた。
「兄ちゃんは落ちついたよ」
 兄ちゃんなんて、兄ちゃんなんて、と昇平が怒り出す。昇平の頭の中は、自分を怖がらせた兄ちゃんに対する怒りでいっぱい。
 それをたしなめる。
「だから言ったんだよ。早くこっちの部屋に行きなさい、って。それを聞かなかったのは昇平くんなんだよ」
 そして、教える。
「兄ちゃん、泣いていたんだよ。昇平くんを怖がらせちゃった、それがつらい、って言ってね。兄ちゃんだって、昇平くんに怖がられて悲しかったんだよ」
 昇平のいいところは、そうやって相手の気持ちを教えられたときに、素直に自分自身を反省できること。自分が兄ちゃんを悲しませた、とわかったとたん、「兄ちゃんに謝る!」と言い出した。……やっぱり兄弟だね。二人で同じこと言っているよ。
 謝らなくていいよ。二人とも、悪くないんだから。また同じことを言ってやって。静かに話し続ける。
「ただね、どうしてこんなふうになったか、原因はわかる? それはね、昇平くんがあの場面に長くいすぎたからなんだよ。お母さんも兄ちゃんも、早くこっちの部屋に行きなさい、って言ったでしょう? あそこで避難していたら、昇平くんはこんなに悲しくなったり、怒りたくなったりしなかったんだよ。昇平くんは、我慢して、あそこに一緒にいすぎたの。スーパーで小さい子が泣いている時みたいに、もっと早く、別の場所に行っていれば大丈夫だったんだよ。この次はそうしようね」
 頭をなでてやりながら、そう言い聞かせ続けて。
 昇平が次第に落ちついてきたのを見て、旦那は、そっと部屋を出て行った。

   ☆★☆★☆★☆

 我が家の混乱はまだ当分続くだろう。
 子どもたちはそれぞれがそれぞれの特徴を持っていて、一人ずつならば何とかなっても、お互いに影響し合う場面も必ず起きてきて。
 でも、その中でもきっと、子どもたちは成長していくから。今よりはきっと、もっと良い関係を築き上げていけるだろうと思っている。
 世界で二人だけの兄弟。いがみ合うより、嫌い合うより、お互い受け入れ合って仲良くいられた方がいいに決まっているよね。

 それまでの間、母親の私は君たちのそばにいてあげる。本当に、もうしばらくは、絶対に一緒にいてあげなくちゃいけないね。
 君たちが一緒に楽に生きられるようになるまで、君たちを支えてあげようね。
 だけど、お母さんだって一人でそれをやっていくのは大変だから。

 ――旦那様、今後も私の支援をよろしくね。


 家族はみんなで生きていくもの。

 

[07/04/08(日) 06:19] 日常 発達障害

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