昇平てくてく日記3
中学校編
視覚的支援に思う
昨日は親の会の講演会の手伝いで朝から地元の大学へ行っていた。
実はここは私の母校なのだけれど、卒業後はめったに行くこともなく、新しい建物も構内にいくつも増えて、私自身が講演会場までの行き方に迷うような状態。これでは講演を聴きに来る人も迷うだろうな、と思い、「会場はこちら」と書いた紙を持ったスタッフに要所要所に立ってもらって道案内してもらった。
そのおかげか迷う人もなかったようで、会場への集合はスムーズだったし、参加者からは「わかりやすかった!」という好評の声も聞こえてきた。
よく発達障害児・者への対応に「視覚的な支援」ということばが出てくるけれど、それはつまりこういうことなんだと思う。
障害がない人だって、初めて行く場所や、広くて構造がわからない場所ではまごついて困ってしまう。どこへ行けばいいのか、どこまで行けばいいのか、不安になるし、迷えば無駄に歩いて疲れてしまう。(現に私は迷って歩きまくり、今日は足が筋肉痛)
そんな時に「こっちだよ」と教えてもらえたらどうだろう。広い会場、声で呼びかけても聞き取れない場合があるから、目で見てわかる案内の紙を持って立っていてもらえればどうだろう。みんな「ああ、そうか」と気がついて、安心して効率よく移動していくことができるんじゃないだろうか。
視覚的支援、というのは、要するにこういうことだと思う。決して特別な対応でもなんでもない。相手の身になって、「こういうところがわかりにくいかな?」「でも、目で見てわかりやすくしてあげれば、できるようになるんじゃないかな?」と考えて、その手助けをすることだ。
そして、昨日の事例でもわかるように、決して障害がある人だけに特化した対応でもない。障害がない人たちにだって、目で見てわかりやすい支援はとても助けになるのだから。
学校でも家庭でもその他の場所でも、もう少し視覚的支援に力を入れれば、みんなもっと楽に暮らせるのにな、と思う場面は多い。先生だって親だって怒らないですむようになるし、子どもだって安心して楽しく暮らせるようになる。
視覚的支援ばかりしていると、聞き取る力が育たなくなる、と心配になるならば、「この時だけはしっかり自分の耳で聞きましょう」という時間を設ければいいんだと思う。今の子どもたちは、障害がなくても他人の話をしっかり聞くのが苦手なことが多いから、「今だけはしっかり聞くことに集中!」という練習をすれば、きっと全体的な「聞く力」も育ってくると思う。
それに、四六時中口うるさく指示しているより、普段は実物を示したり、やり方をやって見せたりしておいて、ポイントを絞って音声で指示をするほうが、子どもの方も素直に聞いてくれる実感がある。たぶん、普段からわかりやすい指示をしていると、子どもの方でこちらを信用して、「この人の言うことだから聞いてみようか」と考えてくれるんじゃないかな……。
結局のところは、相手の身になって、相手の気持ちを考えて支援をしていく、ってところに行き着くんだろうと思う。
何に困っているのか。どんなふうに困っているのか。そのことに対してどうしたいと思っているのか。そのために、どんな手助けをすることができるのか。
それを考えることから、障害がある人もない人も、みんなが一緒に幸せになっていける生活が始まっていくんじゃないだろうか。
そんなふうに思う。
[08/10/06(月) 09:48] 薬・療育