昇平てくてく日記4

高校編

〔26〕長男と見学に行く

10月10日(月)
 久しぶりで10月10日の体育の日。私たちの感覚からすると、この日以外の日が体育の日になることのほうが、なんだかしっくり来ないけれど。

 連休明けから母屋の補修工事が始まるので、今日も昨日に引き続き、荷物を片づけて邪魔にならない場所にまとめたり、その上に埃よけの布を掛けたり。
 そんな中、昼直前に震度4の地震が来た。ガタガタガタッという縦揺れで、家にいた家族全員が驚いて飛び上がったし、昇平は2階から駆け下りてきた。物が落ちるような被害はなかったけれど、今回の揺れで2階へいたる壁と手すりの間に完全に隙間ができてしまって、壁が崩落する危険が高まってきた。補修が先か、余震で壁が崩れるのが先か。時間との勝負だわ。

 ところで、震災以降、我が家で感じる揺れはいつも発表されるものより震度0.5〜1くらい大きく思えるので、「え〜、今の揺れで震度○?」としょっちゅう家族で話し合っている。このあたりは阿武隈川の川筋痕だったようで、地盤が軟弱で周囲より揺れが大きくなる。くわえて、度重なる地震で家の構造体自体が緩んでしまっているんだろうから、しかたないんだろうけれどね。
 今回の補修工事も、本当の意味での補強工事にはなっていない。築46年の家だから、今回はとりあえず住めるように直すけれど、あと数年後には本格的な建て直しになるだろう。

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10月11日(火)
 学校では今日から後期のスクーリングが開始。でも、昇平は今日は授業がないので、フリースクールへ行った。
 今日から母屋の工事が開始――と思ったら、今日はガレージと倉の間にひさしを渡す工事だった。義父が、そこを歩くときに雨の時に濡れないようにしたい、と追加注文した作業。こんな急な要求にもきちんと応えて作業するんだから、プロの大工さんというのは本当にすごいと思う。

 私は明日から一泊で埼玉にいる長男のところへ行くので、その準備に大忙し。今回はいろいろ手続きすることもあるので、準備の漏れがないようにメモを片手に駆け回っていた。
 そんな中、義母が座敷の重いテーブルを動かそうとして大腿部をひねってしまった。骨折ではないようだけれど、歩くのがとても不自由そう。心配だけれど、私は高速バスのチケットを取ってしまったし、アポも入れてあるので、日程変更ができない。旦那と相談して、明日は旦那に仕事の途中で抜けてもらい、夕食のおかずを買って届けてもらうことにした。

 私が不在になるせいか、昇平は昨日はやや精神不安定だったけれど、今日はもう落ち着いていて、「兄さんによろしくね」などと言っていた。

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10月12日(水)
 朝5時半に起き、急ぎ朝食の準備や支度をして、7時前に家を出発。埼玉の長男のところへ出かけた。
 義母の足の調子は昨日よりは良くなって、なんとか歩くことも出来るようになっていた。大変そうではあるけれど、留守をお願いすることができて、ほっとした。
 昇平は午後から授業。午前中のうちから福島駅に行って、駅でお昼を食べてから学校へ行ったらしい。自分のやることを自分でちゃんとやっていて、まったく何も心配なかった、と後で家族から聞かされた。

 私は高速バスで埼玉へ。新幹線より時間はかかるけれど、乗り換えの回数が少なくてすむし、なんといっても安いから、お財布にとてもありがたかった。

 長男は昇平より6つ年上で、現在大学4年生。私立大学文学部在学中。
 最初は学校の先生をめざしていたけれど、教育課程をとるうちに、自分はこの方面には向いていないと気がつき、3年次に一般就職に進路転向。ところが就職氷河期と呼ばれるこのご時世。文学部を出ただけで特に何の資格も技能もない男子学生は、就活をしても取ってもらえない。さらに失恋も重なって、就活の意欲も湧かない状態が続き、そこに3月の震災体験が追い打ちをかけて、4月中頃からは眠れない、食べられない、何の意欲も湧かない、アパートから出たくない、いっそ死んでしまいたい……の状態になってしまった。
 これはすでにニートではなく鬱の始まりと考え、昇平の高校が始まった忙しい時期だったけれど、なんとか時間を作って兄ちゃんのところへ行ったのがGW明け。病院に行きたがらない兄ちゃんを説得して、心療内科のクリニックへ連れていき、薬を処方してもらい、その後も食料を送ったり様子を聞いたり、あれこれと。

 その甲斐あって、ようやく眠れるようになり、少しずつ元気になってきたので、今度は彼の進路について旦那と相談。今の状況で採用される可能性は非常に少ないし、面接を受けるたびに落とされてばかりでは、そのうち本当に自信喪失して、社会に出られなくなるかもしれない。旦那は「何度落とされてもがんばって挑戦しなくては駄目なんだ」と言うけれど、そこまでのガッツのある人間は多くはないし、まして抑鬱状態だった兄ちゃんに、それを要求するのはあまりに酷。きちんと技術や資格を身につけた上で、その方向に就職先を探すようにしなければ、いつまでたっても就職できるようにはならないよ――と説得して、卒業後、あと2年専門学校に通わせることで、ようやく旦那の合意を取りつけた。

 今回の埼玉行きは、その専門学校の見学をするため。
 兄ちゃんは、私立の普通高校、大学と進んできたけれど、実際には、その進路選択に親はほとんどタッチしてこなかった。何故なら、昇平があまりに大変で、昇平を育てるのに手一杯で、兄ちゃんにまで手が回らなかったから。
 兄ちゃんは昇平と違って発達障害の診断などは受けていないけれど、それでも人一倍気持ちにナイーブなところがあるし、いろんな面で親が関わって、一緒に考えたり準備したりしてあげなくちゃいけない子どもだった。それなのに、学校に任せきりで進路を決めたために、高校は本命に落ちてものすごい進学校に行くことになってしまったし、大学も途中で進路変更することになってしまった。どの選択のときにも、一緒に学校見学などをして、兄ちゃんに合っているかどうか、ちゃんと確かめてあげなくちゃいけなかったのに。
 だから、今回の専門学校は、私も一緒に行って、兄ちゃんに本当に合っている学校かどうか、確かめてあげようと思った。その専門学校を見つけて兄ちゃんに勧めたのも、実は私だけれど、兄ちゃんの能力や興味、将来仕事としてそっちの方面でやっていけるかどうか、そこまで考えに入れて探した。もちろん、兄ちゃんには「これ以外にも自分でやりたい仕事や行きたい学校があったら、そっちでもいいんだよ。そっちの学校も見学して、お父さんやお母さんがそこでもいいと思えたら、そっちに進んでいいんだから」と話した。結果として、私が勧めた専門学校でいい、ということになったけれど。

 これまで進路選択で手をかけてあげられなかったツケが、今のこの時期に回ってきたのだろう、と思っている。就活でがんばれないのは、兄ちゃんのせいではなく、そこでがんばれるように育ててこなかった私たち親の責任。だから、今、手をかけてあげなくちゃいけない。長い人生から見れば、たった2年の回り道。それだって、後から振り返れば、きっと有意義な2年間になるはず。
 私たちは今までずっと、昇平にばかり手をかけてきた。でも、兄ちゃんも本当は昇平と同じように、親の手が必要な子どもだった。だから、今度は兄ちゃんの番。兄ちゃんが自立していけるように、兄ちゃんに合った進路を見つける手助けをしなくちゃいけない。
 そんなことを考えながら、高速バスに乗っていた。

 長くなってきたので、その後の詳しい話は端折るけれど、この日は、到着してからまず自動車学校へ行って、兄ちゃんの入校手続きをすませ、さらに、兄ちゃんの携帯が古くなってしまったので、電機屋で機種変更をした。兄ちゃんの携帯は私の名義になっているので、私がいないと変更が難しいため。
 これでこの日はもう夜。お腹もすいたので、和風レストランで食事をして、少しアルコールも飲んだ。考えてみたら、息子とこんなふうに外で飲んだのは初めての経験。二人きりで飲みながらあれこれ話すのは、なかなかいいものだった。
 スーパーに回って食料品も買い込んで、その夜は兄ちゃんのアパートに泊まった。

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10月13日(木)
 朝5時半に起き、シャワーを浴びて、7時過ぎに家を出た。電車を乗り継いで、専門学校へ。

 今回兄ちゃんのために見つけたのは、調理師の専門学校。この話をしたとき、家族も知人も非常に意外がったけれど、実は兄ちゃんは料理が好き。大学に入り、一人暮らしで自炊するようになってから、料理にはまって、自分でネットでレシピを検索しては、あれこれ作ってみたり練習をしたり。ふんわりしたオムレツが作りたくて、卵を大量に買って、一週間以上、毎日オムレツを焼き続けた、なんてこともやっている。アパートの台所にも、棚にいろいろな調味料がずらり。これだけ調味料を揃えている男子大学生は、とても珍しいと思う。
 さらに、兄ちゃんはファーストフード店で2年余りバイトもしてきた。カウンターではなく裏方で、夜中まできつい洗いものをしたり、何種類ものハンバーガーを覚えて作ったり。忙しい店だったから、繁忙期に店を回す経験もしてきた。お客さまには明るく元気に、お客さまを大切にして、要望には可能な限り添えるように努力する、という基本もバイトの中でたたき込まれている。この経験を将来に生かすことができれば、とも思った。

 調理師専門学校にもいろいろあるので、サイトで見比べたり、資料を取り寄せたりしたのだけれど、その中でも特に実力育成重視と思えるところを選んだ。できるだけ実習をたくさんやってくれるところ。具体的に丁寧に教えてくれそうなところ。就職の際に面倒見の良さそうなところ、というのも大事なことだった。
 オープンスクールもあったけれど、あれは一種のお祭りで、楽しい面ばかり見せて本当の大変さはなかなか見せないから、オープンスクールではなく、普段の授業の様子を見せてもらうことにした。

 見学は1時間程度と予想していたのに、1時間半もじっくり見せてもらうことができた。
 実際の実習の風景も、構内の教室や設備も見せてもらったし、授業の内容もいろいろ教えてもらった。想像以上に真面目な学校で、その分かなり厳しそうでもあったけれど、兄ちゃんは悪くない学校だと思ったようだった。
 見学のお土産にすばらしい包丁をいただいたが、兄ちゃんが自分で使いたがったので、兄ちゃんに譲ってきた。いい包丁を欲しがる青年。先方が見込みのある生徒と見てくれたらいいな、と思った。

 その後、兄ちゃんと一緒にお昼を食べ、お茶を飲み、本当はもっとゆっくりしたかったけれど、義母の足の具合が心配だったので、新幹線で帰路についた。夕方5時半過ぎに帰宅。夕飯の支度の時間に間に合った。

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10月14日(金)
 昇平は家庭科の授業があったので、学校へ。

 私は、さすがに疲れが出て、まぶたが腫れてしまって、一日おとなしく過ごしていた。家計簿の整理等、旅行の後片付け。腫れは夕方までには落ち着いた。

 私が留守にしている間に母屋の補修工事が始まっていて、縁側、座敷の押し入れは終わって、、この日には廊下も終わって台所の壁まで進んできた。とにかく、家中の壁という壁がひび割れたり、端の方から崩れたりしていたのだけれど、それがどんどん綺麗になっていく。プロはすごいなぁ、と改めて思った。

 夕方、兄ちゃんから「熱を出した」とメールがあった。風邪気味で少し咳をしていたけれど、それが一気に悪化したらしい。2日の間に忙しく用事を片づけたし、緊張することの連続だったから、疲れたのだろう。薬を飲んで水分と塩分をとって、しっかり寝るように、とメールを返した。

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10月15日(土)
 朝のうち、台所の工事がしやすいように台所の荷物を片づけ、間もなく2階に取りかかりそうだと考えて、2階の東の部屋の荷物を運び出した。大物の家具だけは残したけれど、それ以外は別の部屋やベランダへ。プチ引っ越しのような作業になった。土曜日で昇平がいたので、たくさん手伝ってもらった。台所は午前中で終わって、案の定、午後には2階の作業が開始。片付けが間に合った!

 1階と2階を比べると、被害はやはり2階のほうがひどい。古い家なので、壁の筋交い(すじかい)が足りなくて、崩れそうになっている壁が1つ、すでに崩れ始めている壁が1つ。以前私たちが寝ていた部屋で、昇平のベッドや机もあったけれど、震災後は危険を感じて使っていなかった。工事面積が広いし、材料が入りにくい関係もあって、来週いっぱいかかるかもしれない、と大工さんから説明された。

 夜は、昇平とカードバトル。私の3戦3勝だったので昇平は悔しがって、終わってからデッキの組み直しをしていた。
 兄ちゃんからは、熱が下がった、とメールが入ってきた。

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10月16日(日)
 昨日の荷運びの後遺症で、全身が筋肉痛。特に、足のふくらはぎがぱんぱんになっている。荷物を持って階段の上り下りをずいぶんしたからなぁ。でも、昇平は全然なんでもないという。さすが男子高校生。いくら運動が苦手でも、基礎体力や筋力は全然違うのね。

 今日は日曜日なので工事は休み。午前中はアニメ「ポケモン」を見て、午後は買い物がてら、公園に回って散歩をしてきた。足が痛いので、ゆっくりゆっくり。木々の葉が色づいて散り始めていて、秋の深まりを感じる景色だった。
 夜にはまたカードバトル。昇平の新しいデッキに、こてんぱんにやられてしまった。
 昇平はけっこう頭脳戦を繰り出してくるので、こちらとしても、「おぉーっ、そう来たか!」としょっちゅう驚かされている。

 10月16日は私たちの結婚記念日。いつのまにか23年が過ぎた。いろいろあったけれど、楽しかったし、幸せな23年間だったと思う。
 とはいえ、今年は双方で夜まで記念日を忘れていて、イベントは特になし。「25年目の銀婚式には何かやろうね」と旦那と話し合った。

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☆昇平のブログ→ 「Dark Silver Zone」
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[11/10/17(月) 13:47] てくてく日記

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