昇平てくてく日記2

小学校高学年編

障害児の親になって

我が家には子どもが二人います。長男は現在高校一年生、昇平は小学四年生。二人の間は6歳離れています。
本当はもっと早く、2歳か3歳違いで二人目が欲しかったのですが、何年待っても、いっこうにできません。どんなに医学や科学が進歩しても、子どもというのは授かりものなのだと、その時つくづく思い知りました。
待って待って待ち続け、それでもできなくて、あきらめかけた頃、思いがけず二人目を妊娠しました。それがはっきりしたのは、長男が5歳になった年のクリスマス・イブのこと。これは神様がくれたプレゼントなのかもしれない、と私は半ば本気で考えました。やっと私たちの元に来てくれた二人目の命が、言いようもないほど嬉しく感じられました。
けれども、正直のところ、私はずっと自分が障害児の親になることをとても恐れていたのです。障害児なんてどう育てていいのかわからないし、その障害が生涯、死ぬまで続いてなくなることがないなんてことは、考えただけでお先真っ暗という感じでした。子どもの将来を悲観して、子どもと一緒に心中してしまうかもしれない、と本気で心配していたほどです。いよいよ子どもを産むときには、どうか五体満足で、障害などなく健康で、と心から神に祈りました。
けれども、それにも関わらず、誕生してきた二男にはADHDという障害がありました。診断名にはないけれど、自閉症と共通する特徴もいろいろと持ち合わせています。ようやく授かった命は、生まれついての障害も神様から授かってきていたのです。

でも、発達障害というのは不思議な障害です。一見して障害がある、とは見えません。ごく普通の、当たり前の子どもにしか見えないのです。
ただ、とても育てにくい部分が多々あって、どうしてこの子はこんなに育てにくいんだろう? お兄ちゃんと同じように育てているつもりなのに、いや、それどころか、一人目の経験がある分、親としての余裕さえあるはずなのに、どうしてこんなに子育てが大変なんだろう? と不思議でなりませんでした。
発達も、普通と同じように見える部分があるかと思うと、「どうしてこれができないの?」と驚くような部分もあって、これまた不思議でなりませんでした。発達が遅れているんだろうか? でも、こういうところは他の子よりも進んでいる。この子はいったい何なのだろう? 昇平に診断がつく3歳まで、私と主人は、ずっと頭を悩ませ続けました。障害があるのか、ないのか、そこがはっきりわからないのです。
発達がゆっくりな子で、あるところまで来たら、急に発達が進んでまわりに追いつくのかもしれない……と考えていた時期もありました。他の子よりむしろ進んでいる部分もあったからこそ、そんなふうに考えたのでしょうね。
その発達のアンバランスこそが、発達障害と呼ばれるものの正体なのだと理解したのは、それから何年も過ぎてからのことでした。

とまどっている私たちの目の前で、それでも、昇平はどんどん育っていきました。
ことばの発達は遅れていました。3歳近くになっても、自分から自分の想いを大人に伝えることができないし、こちらのいうことも、なかなか理解してもらえません。危険なこと、社会的に守らなくてはならないことを教えたくても、昇平にはそれが通じないのです。
動きが活発で、片時も目を離すことができません。静かなのは、ひとりでおもちゃ箱のおもちゃを次々と出しているときと、パソコンを好きにいじってお絵かきをしているときだけ。そう、3歳を前にしてすでに彼はパソコンの起動と終了のしかたをちゃんと理解して、それを実行していたのです。彼が描く絵は奔放で、何を描いたのかさっぱりわかりませんでしたが、それでもどこかキラリと光るものが隠れているように私には見えました。
外へ連れて行けば、あっという間に私のかたわらから走り去って、姿が見あたらなくなります。その素早さは本当に忍者か何かのようです。
興味が引かれるものがあれば、しつこいほどにそこへ行き、飽きるまで繰り返しそれを試します。関心を持ったものから昇平を引き離すのは、ことばではあらわせないほど大変なことでした。けれども、数字や文字に強い関心を持ったために、これまた、ろくに受け答えもできないうちに、数字はすべて読めるようになり、続いてひらがな、カタカナもマスターし、3歳の時点で小学1年生程度の漢字もいくらか読めるようになっていました。これも自閉症などによく見られる特徴で、ハイパーレクシアと呼ばれるものなのですが、もちろん、当時の私たちはそんなことは知るよしもありませんでした。3歳にならないうちに数字や文字を読む昇平を見て、周囲の大人たちは「天才かも」と驚いたり、感心したりしてくれましたが、私たちは手放しで喜ぶ気にはなれませんでした。文字の認識という面では進んでいても、他の基本的な部分の遅れが余りにも大きかったからです。
3歳になるのにトイレで排泄がまったくできない。食事時、テーブルについていることができない。大人の言いつけがまったく聞けない。偏食がものすごく、食べられるものが極端に少ない。耳が聞こえないのかと思うくらい、人の話に関心を示さない。と思うと、意外なときに意外なほどこちらの言うことを理解していることもあって、驚かされる。大人でも子どもでも、一緒に遊ぶということができないのに、お兄ちゃんがやっているゲームには強い関心を示して、一緒にやりたがる。数は少なかったけれど、母との手遊びや歌遊びにもとても楽しそうな表情を見せる。
昇平は、著しい発達の遅れの中に、とても優れた部分もたくさん持っていました。その優れている部分が、親である私たちに勇気をくれました。
この子は確かに発達に何か問題を抱えている。だけど、いいところ、すばらしいところも山ほど一緒に持ち合わせている。だったら、困難のある部分には力を貸して助けてあげながら、いい部分を思い切り伸ばしていってあげたい。
昇平に診断がついたのは3歳4か月のことでしたが、その時点ですでに、私の中にはそういう想いがしっかり根を下ろしていたのです。

障害児を産んでしまったら、私はその子と心中するかもしれない。本気でそう考えて、どうか子どもに障害がありませんように、と祈っていた私に、神様は昇平という子どもを授けてくれました。
昇平は自閉症とADHDの特徴が強い発達障害を持っています。
でも、私にはもう、昇平と心中しよう、なんて気持ちはさらさらありません。だって、昇平は障害を持っていたって、確かに大きく成長を続けているのですから。こんなにすばらしい才能と長所を持っていて、将来に向かって前向きに生きようとしている子を、親の思いこみで道連れにしてしまうなんて、これ以上身勝手な親のエゴはないと思っています。
もちろん、困難は今でもまだ続いているし、これからもいろいろと大変なことは続くでしょう。成長と共にひとつ問題が解決したと思うと、大人になったからこその問題というのも新しく発生してきて、親としての悩みには終わりがないのだなぁ、と思い知らされます。疲れ切って、めげて、どーんと落ち込んでしまう日だってあります。
でも、昇平は成長を続けているのです。たくさんの困難に負けないくらい、すばらしい部分もたくさん持っていて、ニコニコと素敵な笑顔で笑いかけてくれています。

今では昇平も自分のことばで自分の想いを伝えられるようになりました。こちらの話もちゃんと理解して聞いてくれます。国語の読み取りのテストで、たまに百点など取ってくるようになったのですから、幼かった頃のことを思えば、まるで夢のようです。
同じ四年生の中ではやっぱり幼さが目立つ昇平で、同級生と対等につきあうのは、まだちょっと無理があるけれど、2学年くらい下の男の子たちと仲良く楽しそうに遊ぶようになりました。多分、今の彼の社会性の発達が、ちょうどそのくらいの年齢まできているのでしょう。
最近はいろいろなものに柔軟に関心を示すようになってきて、家族が食べているおかずを見て「おいしそう」と口に運ぶことも増えました。食べてみたら、意外にもおいしくて、以来好きになる食品も増えました。昇平が「偏食の王様」だったのは、遠い昔のことになりました。
そんな昇平を見ていると、子どもは確かに「変われる」んだなぁ、とつくづく思います。
障害がある、というだけで、あきらめてしまいたくはないのです。
もちろん、できないこと、不可能なことまで無理やりにがんばらせようという気はありません。
でも、少しずつでも良い方向へ変わっていく力を持っているなら、それを支え、本人が得意としていることは思う存分伸ばしていってあげたい。そして、将来、自分の障害もひっくるめて、「これがぼくだ」「ぼくは障害があるけど、でも得意なこともいっぱい持っているぞ」と、胸張って人に言えるような、そんな人間に育っていってほしい、と願っているのです。
そんな彼の成長を支えることこそが、親である自分たちの務めだろう、と思います。

私は前向きな親だ、とよく言われます。確かにそれはその通りだろうと思います。
けれども、私をそんな前向きな気持ちにしてくれているのは、他でもない昇平自身です。
昇平が前向きに生きているから、私も一緒に前向きに生きていく。そういうことなのです。


今回は、障害ある子を授かった私の気持ちの変遷を書いてみました。
次回は、もっと具体的に、昇平がどんな10年間の人生を過ごしてきたのか、それを振り返ってみようと思います。

[06/01/10(火) 14:30] 発達障害

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