昇平てくてく日記3
中学校編
発達障害児への指導の視点
ふと、考えました。
学校のこれまでの指導のしかたって、上にいる先生が下にいる子どもたちへ手を伸ばして、子どもたちを上に引き上げるようなやり方だったんじゃないかしら、と。
学校には必ず「指導目標」というものがあって、教師は「この学年のこの時期の子どもたちにはこれができることを目標にしなさい」と言われます。
たとえば。小学2年生の算数では「かけ算九九」を全部暗記して言えるようになる、という内容が目標になります。確か2学期の目標だったと思うけれど。
当然、教える先生は「かけ算九九」はマスターしています。でも、教わる子どもたちの大部分は、まだ「かけ算九九」は覚えていない。だから、あの手この手の手段を使って、子どもが「かけ算九九」を暗記して言えるように働きかけます。暗記表を作るとか、コンテスト形式にするとか、楽しい歌や語呂合わせで覚えるとか、家庭で暗記の練習をするためのカードを作るとか。それを指導というわけですが、指導のしかたはそれぞれの先生の経験と工夫によって違います。それによって子どもたちを効果的に目標地点に到達させられる先生が、つまり、指導力のある先生と言われるわけです。
でも、発達障害のある子どもたちの指導は、この「引き上げる」やりかたの指導ではうまくいかない場合が多いんじゃないかな、と思いました。
大半の子どもたちならば、暗記カードやコンテストに熱心に取り組んで、次々と「九九」を覚えていくでしょう。
でも、発達障害のある子だと、その途中のどこかでつまずいてしまう場合が多いのです。
ADHDのある子は繰り返しや長い取り組みには早々に飽きます。自閉の特徴のある子はコンテストで一番に合格することにこだわりすぎて、自分が覚えられないことにイライラするかもしれません。長期記憶に困難がある子どもの場合だと、暗記そのものが異常に高いハードルになります。数学的LDなどがあって、数量の概念がまだ充分育っていない子にも、「かけ算九九」は非常に難しいでしょう。
そんな子どもたちにも、先生は手を伸ばします。「みんながんばっているんだよ。君もがんばって登っておいで。君にもきっとできるから」
だけど、発達障害は、気持ちや意気込みだけでなんとかなるほど甘いものじゃありません。
子どもは挑戦してみるけれど、どうしても登っていけなくて挫折してしまいます。何度やってもやっぱりダメです。他の子たちはみんな次々に登っていけるのに、自分だけが取り残されていくと、その子は自信を失っていきます。
「ぼく(あたし)がいつまでもできないのは、ぼく(あたし)が馬鹿だからだ」「だって、みんなと同じようにできないんだもの」「先生だって、お父さんやお母さんだって、どうしていつまでもこんなことが出来ないの、って叱るし」「ぼく(あたし)はダメな人間なんだ」……。
先生は、その子にもみんなと同じように上がってきてほしくて、それで励ましているだけなのに、子どもはどんどん自尊心を下げてしまいます。それが積もり積もれけば、やがて不登校や不適応行動などの二次障害が始まってきます。たどり着く目標までの距離が、その子にとっては高すぎるんです。
例えばこんなことを言ってしまっていませんか? 子どもが他の子の数倍も数十倍も努力して、やっと「5の段」を覚えたとします。「よくがんばったね! やればできるじゃない。じゃあ、この調子で今度は4の段を行ってみようか!」
その子は必死でそこまで上がってきて、へとへとになっているかもしれません。
やっと階段を1段上がって嬉しかったのに、その上にはまだまだはるかな高みがあると気づかされて、嬉しい気持ちはたちまちしぼんでしまうかもしれないです。
上から手を伸ばして、子どもたちを引き上げるような指導法は、そういう結果を生みやすいんだろうと思います。
なかなか効果が上がらないし、子どもは次第にやる気を失っていってしまうし。
それは障害のせいだからしかたない、と言われれば、それまでかもしれないけれど。
傷ついて自尊心を下げていく子どもたちも、熱心に指導に取り組んでいるのに、その効果が上がっていかない先生も、どちらにもかわいそうな状況だと思います。
考え方をちょっと変えてみたらどうかしら、と思います。
目標は、たどり着けそうならば、従来通りでいいでしょう。「かけ算九九を暗記して言えるようになる」。
ただ、目標は高い場所に置いても、先生は高い場所にいないで、子どもがいる場所まで降りてくるのです。
それはつまり、その子が今、どのくらいの力を持っているか見極める、ということ。この子は単調な繰り返しを極端に嫌がる子ではないかしら? いつも一番になることにこだわる子ではないかしら? この子は数字や文字を読むのが苦手に見えるなぁ。この子はひとつのことを覚えるのに、いつも他の子の何倍も時間がかかるみたい……。
子どものいる場所まで降りてくる、というのは、そういうこと。
そういう「子どもの今の力」を見極めた上で、「このくらいならできそうかな?」という小さな段を準備する。そして、他の子ならば一歩で上がれそうなところを、例えば三つくらいに分けて登っていってもらう。
「一度に3の段全部を言わなくてもいいよ。まずはここまで……三分の一までね。それを覚えたら、三分の二まで増やすよ。それも言えるようになったら、最後まで覚えよう」例えばそんなふうに。
いっぱい上がって子どもが疲れてきても、子どもと同じ場所に立っていれば、その疲れが感じられます。「うん、ここまでよくがんばったよね。ここらでちょっとひと休みしようか。休んでまた元気になったら、続きを覚えようね」 子どものがんばりを同じ場所から見ていれば、そういうことばかけも自然にできるようになるでしょう。
よく、「指導は子どもの視線に立って」とか「教師は子どもの気持ちに寄り添って」とか言われるけれど、それって、つまりこういうことなんだと思うのです。
そして、こういう指導の必要性は、実際には算数だけでなく、学校生活のあらゆる場面で出てくるんだろうな、とも思います。
上から手を伸ばして子どもを引き上げるのではなく。
子どもと同じ場所に立って、子どもにあった踏み段を準備してあげて、「ぼく(あたし)にもできた!」と喜びを感じてもらいながら登っていってもらえるように、下から上を目ざす。
発達障害を持つ子どもたちには、そういう指導の視点が必要だろうなぁ、と――。
そんなことをつらつらと考えていた日曜日でした。
[09/07/12(日) 21:50] 学校